第八十五回・志を傾けて夏行(なつゆき)は四賢(しけん)を留める・夢を占って重戸(おもと)は讖兆(しんちょう)を説明する

南総里見八犬伝 第八 之六

東都 曲亭主人 編次

再説(ふたたびせつめいする)。夏行(なつゆき)・有種(ありたね)らは、四犬士が既に証据(しょうこ)を取って、冤(しいたげ)から逃げ延び恥を雪(すすぎ)清める、智弁 勇敢 嫌になるまでに、譴(とが)め懲(こ)らしめられてそろって、羞(はじ)て頭(こうべ)を低(たれ)ていた。登時(そのとき)犬村 大角(いぬむら だいかく)は、道節(どうせつ)に威伏(いふく)させられて、堤の下に退却し聚(あつ)まった、夏行(なつゆき)の従僕(じゅうぼく)らに、すっかり向かい合って手招きをして、「若(おまえ)ら衆人(みなのもの)、這(この)盗児(ぬすびと)の、招道(はくじょう)の趣旨は、皆同じように行き渡って听(き)いただろう。嚮(さき)ほどに這(この)野良平(のらへい)が、籬笆(かきね)を破って逃げた時、認得(みとめ)た小厮こもの・若い男の召使)がいるとか聞いてしまった。前述の小厮こもの・若い男の召使)も這里(ここ)に来て、その一隊(ひとむれ)にいるならば、找(すす)み近着(づ)いて這奴(こいつ)を見ろ。那(あの)賊(ぞく)であるか、そうではないか、いよいよ明白であるはずだ。快々(さっさ)と来い。」と急がすと、衆人(おおくのひと)は二個(ふたり)の主人を、保質(ひとじち)に拿(と)られている、形勢に推辞(ことわる)はずもないので、大家(みなみな)斉一(ひとしく)「応」と回(こた)えて、一個(ひとり)の小厮こもの)を振り返って見ながら、「得手吉(えてきち)、那(あの)時 盗児(ぬすびと)を、見つけ出したのは野郎であるので、はやく出ろ。」と目星(めぼし)に指される、得手吉(えてきち)は困り果てて、頭(こうべ)を掻(か)きながら逡巡(あとずさり)して、速(すぐ)には立って出もし難(かね)たのを、衆人(おおくのひと)は聴(き)かず、推(お)し出されて、そういう状況でやめるはずではないので、持っている棒をすっかり捨てて、おそるおそる大角の、身辺(あたり)に找(すす)み近着(ちかづ)いて、綑(ほばく)されている両個(ふたり)の賊を、あれこれじっくりと見て、「刀祢(との)さま嚮(さき)ほどに小可(わたくしめ)が、厠(かわや)から出る時、目前で見た盗児(ぬすびと)は、是(これ)は這奴(こいつ)であります。」と言いながら野良平(のらへい)の方に指をさすので、大角はさぞかしと頷(うなず)いて、「それならばおまえにさらに用事がある。両個(ふたり)の賊を見張れ。」と言われて得手吉(えてきち)は固辞(じたい)するために理由なく、信乃(しの)に代わって野良平(のらへい)らの、索(なわ)を拿(と)りながら見張っていた。恁而(こうして)もう一度 大角は、夏行(なつゆき)にすっかり対座して、「氷垣 老人(ひがき ろうじん)今 這(この)小厮こもの・若い男の召使)が、話したいきさつを听(き)いたか。河太郎(かわたろう)と野良平(のらへい)の、招道(はくじょう)は明白であるといっても、這(この)盗児(ぬすびと)を認得(みとめ)た、小厮こもの・若い男の召使)がいると聞いたので、もし見せて吻合(ふんごう)しないなら、さらにいっそう疑われる事もあるだろうか、と考えるためによって面前(まのあたり)で、這(この)小厮こもの・若い男の召使)をも調べた。こうしたままでも惑(まよ)いが解けないか。」と言うともう一度 道節も、以前の水際(みぎわ)に下がって来た、夏行(なつゆき)・有種(ありたね)にすっかり対座して、「頑愚(がんぐ)の老人 無智(むち)の壮佼(わかもの)、さぞかし胆(きも)が潰(つぶ)れただろう。俺(わが)義兄弟 犬飼(いぬかい)は、勇士であるけれども怒(いか)りに乗(まか)せて、人を殺害することを望まない。況(ま)してや這(この)犬村(いぬむら)は、料(はから)ずも二賊を獲(え)て、おまえらの疑いを、解く手段があるのを歓(よろこ)ぶだけ。ちょうどその時おまえら主従(しゅじゅう)が、這(この)場所に来たのに及んで、縡(できごと)は恁々(しかじか)と説明して示して、二賊を見せようと言ったけれど、その程度ではおまえらが、思う存分君子を虐(しいた)げた、愆(あやまち)がわかるだけで、犬飼・犬村 二兄弟の、恥を雪(すすぎ)清めるためにまだ足りない。懲(こ)らしめて思い知らせてやろう、と考えてしまったのでその主旨を否(ないがしろ)にして、このように計略にかけた。疑心暗鬼を生ずと言ったとかいう、世の常言(ことわざ)と違うことなく、疑似(ぎじ)の迷いを解くけれども悟らないで、その人自身の破滅に及ぶことは、とても愚(おろ)かである所行(おこない)ではないか。こうしたままでも先非を悔いないで、話す言い訳はあるか甚麼(どう)か。」と詞(ことば)徐(しずか)になじり問われた、夏行(なつゆき)と有種(ありたね)は、いよいよ羞(はじ)て今改めて、後悔の外(ほか)なかったということだ。その中で夏行(なつゆき)は、嗟嘆(さたん)に堪(た)えられず蕭然(しょうねん)と、四犬士を振り返って見て、「私は暗愚(あんぐ)の思慮が足りないで、女児(むすめ)重戸(おもと)の意見を用いず、むやみに二君子を冤(しいた)げた、その罪は実に万死(ばんし)に当たっている。非如(たとえ)目今(ただいま)この儘(まま)で、縛頸(しばりくび)を撃たれるとしても、自業自得(じごうじとく)でありますので怨(うら)みはない。そうではあるが、重戸(おもと)の忠恕(ちゅうじょ) 惻隠(そくいん・註1)の、心に顧(かんじい)って壻(むこ)有種(ありたね)を、許しなさるなら、身後(しご)の幸い、冥府よみじ)もきっと先が安心だろう。這(この)主旨をご海容(かいよう)くださいね。」と憑(たの)むのを有種(ありたね)は無理やり制止して、「それはまた予想しないことである。諸君 願うは听(き)いてください。私は初めから、二君(にくん)が因(とらわ)れなさったことを知らない。那(あの)盗児(ぬすびと)らを趕(お)い難(かね)て、日暮れて宿所にかえった時、養父が二君の逐電(ちくてん)の、縡(できごと)の顛末は箇様々々(このようこのよう)と、報(つげ)るためによってそろって、這里(ここ)へ趕(お)っ蒐(か)けて来たのである。虚実(きょじつ)を糾(ただ)すのに暇もなかった、縡(できごと)は倉卒(そうそつ)に起こるといっても、一緒に勇み立った這身(このみ)の不覚、罪を免(のが)れる所はない。只(ただ)私の首(こうべ)を刎(はね)て、親をお許しなさってくれ。」と嘆き悲しんでいる孝烈(こうれつ)慈愛(じあい)で、死を争って止まらなかったのを、四犬士は斉一(ひとしく)感動していた、中でも大角・現八は、歎賞(たんしょう)しながらあの人を見たりこの人を見て、「氷垣 老人(ひがき ろうじん)・落鮎 生(おちあゆ うじ)、嚮(さき)ほどに話したことを聞かないのか。俺們(われわれ)は初めから害心はない、過(あやま)って改める時に憚(はばか)ることはするなとある、(ひじり)の教えを思わないか。先非を悟った怠状(たいじょう)の、意向を聞くからは、俺們(われわれ)も同様に怨(うら)みはない。今改めて死活を論ずるだろうか。」と詞(ことば)を等しく慰(なぐさ)めて、夏行(なつゆき)と有種(ありたね)に、被(か)けた索(なわ)を解いて捨てて、分捕(ぶんどり)した両刀を、「さあ」と言って返し与えるので、夏行(なつゆき)も有種(ありたね)も、いよいよ羞(はじ)て簡単に取らない。そろって跪(ひざまず)いて、「私らは幸いに、寛仁(かんじん)大度(たいど)の意を示されて、首(こうべ)を保ち続かせていただくこと、是(これ)は再生の洪恩(こうおん)である。それにしても四君子は、普段は是(これ)は何州(どこ)の豪傑(ごうけつ)か。願うは本貫(ほんごく)高姓(こうせい)を、具(つぶさ)にお知らせくださいね。子孫に伝えて後(のち)の世まで、永く武徳を仰ぐつもりだ。是非ともお名告(なの)りください。」と願い求めること二、三度、真実 帰伏(きふく)の心操(きだて)は、やはり他のことを顧(かえり)みなく聞こえたので、歓(よろこ)び感動する現八・大角、そろって莞爾(にっこ)とすっかり笑って、「(あっぱれ)素晴らしい懺悔(ざんげ)の誠心(まごころ)、愆(あやまち)を知る者は、誰もこのようにこそなければならない。私自身は不肖(ふしょう)であるけれども犬士の一人(いちにん)、私は下野国(しもつけのくに)にある赤岩(あかいわ・註2)の人氏(じゅうにん)で、義に仗(よ)って故郷を去った、犬村 大角 礼儀(いぬむら だいかく まさのり)である。」と名告(なの)ると同様に現八も、「俺(わたし)は下総国(しもふさのくに)許我(こが)の退糧人(ろうにん)、犬飼 現八 信道(いぬかい げんはち のぶみち)である。」と告げながら傍(そば)を振り返って見ると、信乃(しの)・道節(どうせつ)もそろって、「武蔵国(むさしのくに)豊嶋(としま)の大塚人(おおつかびと)、犬塚 信乃 戍孝(いぬつか しの もりたか)、同国 煉馬 平左衛門 倍盛 主(ねりま へいざえもん ますもり ぬし・豊嶋氏の分家)の残党に、そのような者がいると知られた、犬山 道節 忠与(いぬやま どうせつ ただとも)である。過世(ぜんせ)で結んだ義兄弟は、さらにこの外(ほか)に三名(さんにん)いる。互いに別れてから往方(ゆくえ)がわからないので、数年来 諸国を巡(めぐ)った甲斐(かい)に、今宵(こよい)料(はか)らず犬飼・犬村、二兄弟に環(めぐ)りあう、ことをここで得たのである。」と名告(なの)るのをふと聞く夏行(なつゆき)・有種(ありたね)は、驚きながら目を合わせて、「原来(さては)五、六年前の頃、這頭(ここら)で風声(ふうぶん)が隠れなかった、那(あの)大塚(おおつか)から程近い、庚申塚(こうしんづか・巣鴨の庚申塚)の法場(おきてのば)を、思いの随(まま)に鬧(さわ)がせて、同盟(どうめい)冤枉(むじつ)の罪人(つみびと)を、拯(すく)い拿(と)ったと噂された、犬士とやらでいらっしゃるのか。」と訊(たず)ねると信乃・現八はそろって含笑(ほほえみ)頷(うなず)いて、「訊(き)かれるように俺們(われわれ)が、拯(すく)い拿(と)った義兄弟は、犬川 荘介 義任(いぬかわ そうすけ よしとう)と、名前をつけて喚(よ)ぶ一箇(ひとり)の俊傑(すぐれたひと)である。さらに這(この)外(ほか)に犬田(いぬた)・犬江(いぬえ)の、二犬士とそろって七人(しちにん)は、忠信 孝義も伯仲(はくちゅう)する。優劣(まさりおとり)もない者である。」と報(つげ)るといよいよ驚き感動する、夏行(なつゆき)は恭(うやうや)しく、道節(どうせつ)にすっかり対座して、「犬山 賢君(けんくん)私の、女壻(むこ)有種(ありたね)は煉馬(ねりま・豊嶋氏の分家)の舎兄(しゃきょう)、豊嶋 刑部 左衛門 信盛 主(としま ぎょうぶ さえもん の じょう のぶもり ぬし)に仕えている、者でこそありますのです。」と言うと同様に有種(ありたね)も、道節にすっかり対座して、「さしでがましくありますけれども、私の父 落鮎 岩水 員種(おちあゆ がんすい かずたね)と喚(よ)ばれた者は、当時豊嶋(としま)の家臣である。二親(ふたおや)は早く世を去ってしまったので、私も同様に信盛(のぶもり)主に使われて、童扈従(わらわこしょう)でありましたところ、豊嶋(としま)の一族滅亡の時、憖(なまじ)っか撃(う)ち漏(も)らされて、身の上を措(お)く場所がなかったところ、養父(ようふ)氷垣 残三(ひがき ざんぞう)の妻は、私にとって伯母であったので、窃(ひとめをさ)けて這地(このち)に逃げ落ち留(とど)まって、その人の女児(むすめ)を妻(めあわ)せられて、養父と称(たた)え、義子と喚(よ)ばれて、今日(こんにち)に及んだのである。ところでおまえさんは豊嶋(としま)の一族、煉馬(ねりま・豊嶋氏の分家)の旧臣でいらっしゃったのを、ここで初めて教諭(きょうゆ)しなさって、懐旧の感情は並大抵ではない。先考 犬山 道策 大人(いぬやま どうさく うし)は、江五田(えごた)・池袋(いけぶくろ)の戦い(註3)で、比類ない掙(はたら)きをして、陣死(うちじに)をしなさった、その縡(できごと)の内容も、伝聞(でんぶん)は久しい時になったけれども、年月が経ってしまった事を相譚(したしくはなす)ような、詞敵(ことばがたき)もいなかったけれども、君家に与(とって)は旧縁がおありになった、賢者と関係を結ぶことは、這(この)身の光を増すことに似ている。今から諸君に事件があるなら、一臂(いっぴ)の力をお尽(つ)くし申し上げましょう。おん目をちょうだいしますね。」と肝胆(かんたん)を吐き、素生(すじょう)を演(の)べて、まったく隔(へだ)てなく聞こえたので、道節も同様に怡悦(いえつ)に勝(たえ)ない。「這(この)数年来 義兄弟を、索(さが)し求めて諸国を徧歴(あちこちめぐりある)いたけれども、豊嶋(としま)・煉馬(ねりま・豊嶋氏の分家)の残党には、名告(なのり)あうことがなかったのに、憶(おも)わずおまえさまの素生(すじょう)を聞いて、故人に遇(あ)った心地がする。とても憑(たのも)しくあります。」とその歓(よろこ)びを舒(の)べるので、信乃・現八・大角も、そろって称賛して、「怨讐(えんしゅう)は環(かえ)って知己となる、世は塞翁(さいおう)が馬であった。本当に愛(めで)たい、めでたい。」と斉一(そろって)奇偶(きぐう)を祝したということだ。

且(しばらく)して現八は、もう一度夏行(なつゆき)にすっかり対座して、「嚮(さき)ほどに衆人(おおくのひと)が話していたので知った。おまえさまは這頭(ここら)三(さんごう)を、開発した功があるのではないか。この主旨も聞きたいことよ。」と問われて夏行(なつゆき)、「さようでございます。私は遡(さかのぼ)ると丹治(たじみ)党(参考:武蔵七党・丹党)で、弱冠(じゃっかん)の頃、鎌倉(かまくら)の管領(かんれい・註4)持氏 朝臣(もちうじ あそん)に仕えていた。だから持氏(もちうじ)御滅亡の後、春王(しゅんおう)・安王(あんおう)両公達(りょうきんだち)のおん与(ため)に、結城(ゆうき)の城に盾籠(たてこも)って、武蔵国(むさしのくに)の人氏(じゅうにん)大塚 匠作 三戍(おおつか しょうさく みつもり)と一緒に、城の一方を戍(まも)ったけれども、公達(きんだち)は御武運がお開きなさらず、諸将防禦(ぼうぎょ)は画餅(がべい)となって、落城に及んだ日、私は憖(なまじ)っか、寄隊(よせて)の囲みを殺脱(きりぬ)けて、遠く這地(このち)に逃げ落ち留(とど)まり、地頭(じとう)穂北 氏(ほきた うじ)に身を寓(よ)せて、做(な)すこともなく暮らしていたところ、結城(ゆうき)で私の、隊(はいか)に隷(つ)いた士卒 百名(ひゃくにん)ほどが、私の迹(あと)を慕(した)って、一緒に這地(このち)に聚合(あつま)った。当時(そのころ)穂北(ほきた・註5)・梅田(うめた)・柳原(やなぎはら)の三は、数年来の兵火で荒れて、一(いっぽ・一坪)を耕(たがや)す者もなく、農商 離散していたので、地頭(じとう)も棄(す)ててかえりみず、妻子 眷属(けんぞく)を携(たずさ)えて、愁訴(しゅうそ)の為 京師(みやこ)に向かい、室町殿(むろまちどの)に仕えていたけれども、応仁(おうにん)の乱(みだ)れにより、戦死(うちじに)した、と噂されただけ、その妻子(いちぞく)でさえも帰って来ないので、這地(このち)はいよいよ草野(のら)になった。当日(そのころ)私は落人(おちうど)らに、力田(りきでん)を薦(すす)め地を闢(ひら)かせて、一緒に心力(しんりょく)を尽くしたところ、年に水旱(すいかん)の心配事はなく、利を得ることが並大抵ではないので、人は咸(みな)私を徳として、推(お)して三の長(おさ)とした。この時より先に私は、旧(もと)の地頭(じとう)穂北 氏(ほきた うじ)の従弟女(いとこのおんな)が、独(ひと)り遺(のこ)されて這地(このち)に住んでいたのを、娶(めと)って女児(じょじ)を産ませただけ、不幸にして男児(おとこのこ)はいない。妻は近属(ちかごろ)あの世へ行ってしまった。さて豊嶋(としま)の落人(おちうど)、落鮎 余之七 有種(おちあゆ よのしち ありたね)は、亡妻(なきつま)の侄(おい)で、人の尻馬(しりうま)に乗る者ではない、よく耕農を奨(はげ)まして、資助(たすけ)となることは尠(すくな)くないから、女壻養嗣(むこようし)にしたところ、もう一度 那(あの)豊嶋(としま)の落人(おちうど)らが、有種(ありたね)の身の上を伝聞(つたえき)いて、身を寓(よ)せ庇(よりどころ)として立ちたくした者は、八、九十名(にん)に及んだので、もう一度 厶們(それら)にも田地(でんち)を取らせて、繁昌(はんじょう)は都会(とかい)に劣らなくなってしまった。こういうわけで私が結城(ゆうき)を逃げ落ちて、穂北 氏(ほきた うじ)に寓居(ぐうきょ)してから、今に至って四十二年、このようにして三(さんごう)の長(おさ)になってから、十四年が歴(た)っているのである。」と報(つ)げると現八・道節は、そろって掌(てのひら)をうち鳴らして、「これも同様に一奇偶(いつきぐう)である。氷垣 老人(ひがき ろうじん)いまだ知らないか、俺(わが)這(この)兄弟 犬塚 生(いぬつか うじ)は、おまえさまが一緒に結城(ゆうき)で、城の一方(いっぽう)を戍(まも)っていた、と話された、大塚 匠作 三戍(おおつか しょうさく みつもり)にとっては嫡孫(ちゃくそん)、その嗣(こ)犬塚 番作 一戍(いぬつか ばんさく かずもり)の、独(ひと)りっ子でありますぞ。」と言うと夏行(なつゆき)は胆(きも)を潰(つぶ)して、「原来(それでは)同様に是(これ)は旧縁がある。嘉吉(かきつ)に結城(ゆうき)籠城(ろうじょう)の頃、私は年がまだ弱(わか)かったので、匠作 主(しょうさく ぬし)に指南されて、師弟の気持ちをもっていたところ、那(あの)人は戦歿(うちじに)して、忠誠 武名を世に知られ、私は存命(いきながらえ)て、田舎翁(でんしゃおう)となった事は、識者にとっては羞(は)じることが多い。犬塚 主(いぬつか ぬし)は何の為に、爹々公(おとうさん)の時から家系を捐(す)てて、他姓を冒(おか)しなさった。」と問われて信乃は愁然(しゅうねん)と、目をしばたたき嗟嘆(さたん)して、「その疑いは当然の事である、父 番作(ばんさく)は多病によって、故郷に退隠(たいいん)していたけれど、姉夫(あねむこ)大塚 蟇六(おおつか ひきろく)の、奸曲(かんきょく)不義を忌(い)み嫌う理由があって、大塚(おおつか)の大の字に、一点を加えた。他姓を冒(おか)したのではない。この時から俺(わたし)自身に及ぶまで、犬塚(いぬつか)をもって家号(かごう)とする。縡(できごと)は偶然に現れるといっても、是(これ)は宿因が致す所、言葉に表し易(やす)くはない縁故がある。私は甲斐国(かいのくに)で旅宿(たびね)した時、外戚(ははかた)に旧縁のあった、四六城 木工作(よろぎ むくさく)と名前をつけて喚(よ)ぶ者と、名告(なの)りあうことができていたけれども、今もう一度ここで大父(そふ)の旧友、氷垣(ひがき)の翁(おじいさん)に値遇(ちぐ)したことは、思いがけない幸いで、見ない世の事も聞きたい。感悦(かんえつ)はこの主旨であります。」と言うと歓(よろこ)ぶ夏行(なつゆき)・有種(ありたね)、「私らは衣食足りて、這地(このち)でひたすら年が歴(た)った、これといった親類はない者であるのに、犬塚・犬山 二君子と、旧故をおそれ多くするからには、犬飼・犬村 その他の諸君も、気にしないようなことをこそ、願わしいのでありますのです。このように話すなら身の程を、思わない者に似ているけれども、私らも武芸を嗜(たしな)んで、強敵(ごうてき)にあうとしても、後(おく)れを取ることはなかったのに、今宵(こよい)犬村・犬飼の、二君子(にくんし)を刺(さ)そうとした時、その胸前(むなさき)から忽然(こちねん)と、光を放ち眼(まなこ)を射(い)て、衝(つ)き出す鎗(やり)が狂ったので、些(ちっと)も捷(か)ちを攬(と)ることができない、大刀(たち)すら抜(ぬ)かない二君によって、組み伏(ふ)せられましたのは、武芸 力量はその差があって、勝負は明白であるものの、理由がある事か。それにしても、理解し難くあります。」と疑惑ひとしく質問したのを、信乃・道節は慰めて、「私らが少し見た所、今宵(こよい)おまえさまら親子の武芸が、劣(おと)っているのではないけれども、犬飼は二階松(にかいまつ)の高弟で、緝捕とりもの)では、敵なしと称えられる。犬村 生(いぬむら うじ)の修煉(しゅれん)の程は、今宵(こよい)初めて見ただけ。いまだその人の師を詳細にしないけれど、是(これ)も同様に犬飼と、伯仲(はくちゅう)するに違いない武芸である。且(かつ)俺們(われわれ)七犬士は、感得の霊玉があるのを、各々 懐(ふところ)に蔵(おさ)めている。是(これ)らの理由か。」と説明して諭(さと)すと、夏行(なつゆき)と有種(ありたね)は、亦復(またまた)驚き感服して、「原来(さては)諸君は尋常(せけんなみ)な、勇士ではなかったことよ。既に早くも夜(よ)は深(ふ)けた。宿所へお連れして差し上げましょう。」と言いながら衆僕(しゅぼく)を振り返って見て、「若們(おまえら)は三、四名(にん)、早く宿所へ帰って行って、听(き)いた事情を重戸(おもと)に報(つ)げて、賓客(きゃくじん)の食事の用意をしろと必ず言え。快々(さっさと)行ってしまえ。」と急がせると、「承(うけたまわ)った。」と壮佼(ひゃくしょう)どもは、早くも三、四名(にん)身体を起こして、穂北(ほきた)を投(めざ)して走ったということだ。登時(そのとき)現八・大角は、もう一度夏行(なつゆき)にすっかり対座して、「義兄弟の資助(たすけ)によって、生け拘(ど)られた這(この)二賊は、地方の法度(はっと)もあるに違いないので、おまえさまの随意(ままに)取り計らいなさい。」と言うと夏行(なつゆき)は異議もなく、「貴教(ききょう)の意向 承(うけたまわ)った。地方に稀(まれ)である兇賊(きょうぞく)を、容易に捕縛されたことは、是(これ)は四君子武徳に憑(よ)る。俺(わが)三(さんごう)の幸だけではなく、心配事を根こそぎにし害を除く、隣(りんぐん)までの慶祥(よろこび)であろう。このような草賊(そうぞく)は、速やかに首(こうべ)を刎(は)ねて、あちらこちらの人に示すことが相応しい。終わるまで権且(しばらく)お待ちください。」と応(へんじ)をしてすぐに有種(ありたね)にも、了承させつつそろって、河太郎(かわたろう)・野良平(のらへい)にすっかり向かい合って罪を責(せ)めて、一緒に刀を抜(ぬ)き閃(ひら)めかせる。有種(ありたね)は河太郎(かわたろう)の、首(こうべ)を磤(どん)と撃ち落とすと、夏行(なつゆき)は野良平(のらへい)の首(こうべ)を刎(は)ねて刃(やいば)を斂(おさ)め、却(さて)得手吉(えてきち)に分付(いいつけ)て、船の板子(いたこ)を拿(と)り寄せて、腰にある墨斗やたて)の筆をもって、板子の背(うら)へ恁々(しかじか)と、二賊の罪科を書き着(つ)けて、もう一度壮佼(わかもの)らを召(よ)び寄せて、「箇様々々(このようこのよう)」と分付(いいつける)と、壮佼(わかもの)らは承知して、二箇(ふたつ)の首級を水際(みぎわ)にある、樹枝(きのえだ)に梟(か)け並べて、板子の札(ふだ)はその樹(き)の幹へ、索(なわ)をもって括(くく)り着けてしまった。四犬士は夏行(なつゆき)の、決断に礙滞(ぎたい)なく、且(かつ)神速の取り計らいを、老功があると思った。事が終わって夏行(なつゆき)・有種(ありたね)は、四犬士について、穂北(ほきた)へ帰っていく間に、三十名(にん)以上の従類は、夏行(なつゆき)・有種(ありたね)の鎗(やり)を携(たずさ)え、ある者は船篙(ふなざお)を拿(と)り抗(あ)げて、錑(もじり)叉(さすまた)と一緒に、一縢(ひとからげ)にして荷担(にな)う者もあり、その他に続松(ついまつ)を秉(と)る者もいて、先に立ち後に跟(つ)き、陸続(りくぞく)として従ったということだ。

こうして這宵(このよ)が更(ふ)けて、信乃・道節・現八・大角は、氷垣(ひがき)親子に伴(ともな)われて、穂北(ほきた)の宿所に来てしまったので、家僕(かぼく)らは玄関に出迎えて、客房(きゃくのま)で案内をする。款待態(もてなしぶり)は並大抵ではない、且(しばらく)して夏行(なつゆき)・有種(ありたね)は、衣裳(いしょう)を更(あらた)めて出て来て、准備(ようい)の夜飯を四犬士に、羞(すす)めなどしていた間に、早くも(あかつき)になったので、客も主(あるじ)も翌(あす)と契(ちぎ)って、辞して枕(まくら)に就いてしまったそうだ。

却(さて)詰朝(あくるあさ)夏行(なつゆき)は、荘客(ひゃくしょう)らに吩咐(いいつけ)て、那(あの)賊船(ぞくせん)を破却(やぶりすて)させ、這日(このひ)宿所に酒宴を儲(もう)けて、四犬士(しけんし)を管待(もてなし)た、野蔬(やそ)海錯(かいさく・海の恵み)数を尽くして、田舎に稀(まれ)である調理であったのを、四犬士はそろって称(たた)えて、盃(さかずき)を受け巡(めぐ)らせたということだ。この時 世智介(せちすけ)・小才二(こさいじ)は、手足の撲傷(うちみ)はまだよくならないけれど、四犬士の縡(じけん)の内容を、伝聞(つたえき)きながら駭(おどろ)き怕(おそ)れて、有種(ありたね)に就いて、現八・大角に、昨日の無礼を陪話(わび)たので、現八と大角は、今はもう烏許(おか)しく思って、「一体どうしてそんなことがあるだろう。這方(こちら)へお召(よ)びなさい」と言って、世智介(せちすけ)と小才二(こさいじ)を、席末(せきまつ)に招きよせて、その人の痛所(つうしょ)を問い慰(なぐさ)め、気にすることがないようにと言って、一緒に盃(さかずき)を取らせてしまったので、世智介(せちすけ)・小才二(こさいじ)は歓(よろこ)んで稟(う)けて、初めて安心したという。信乃・道節も是(これ)らの情由(わけ)を、ここで初めて聞いて知って、那(あの)計略を誉(ほ)めたので、大家(みな)咄(ど)っと笑い興(きょう)じて、隔(へだ)てもなくなってしまったそうだ。だから現八・大角は、這(この)時をもって夏行(なつゆき)に、重戸(おもと)が人を知る才能があって、囹圄(れいぎょ)の内に拯(すく)い出した、徳を称(たた)え恩を感じて、「なんとしても一度 面前(まのあたり)で、這(この)歓(よろこ)びを演(の)べたく望む。余之七 主(よのしち ぬし)も一緒に、是非とも伝えてください。」と憑(たの)むと夏行(なつゆき)は含笑(ほほえ)んで、「犬飼・犬村 二君子の、拙女(せつじょ)に褒美(ほうび)は分に過ぎている。勿論(もちろん)他(かのじょ)は貞実で、親に不孝の行いはなく、良人(おっと)に不遜(ふそん)の事もない。母親がこの世を去ってから、只(ただ)よく家をひたすら理(おさ)める。這地(このち)の字(あざな)を操野(みさおの)と、名前をつけて喚(よ)ぶ甲斐があるのに似ているけれど、どうして十分に虚実(きょじつ)を区別して、人を知るという才能があるだろうか。そうであるのに昨日は他(かのじょ)一人、犬飼・犬村 二君子を、那(あの)賊ではないと鑑定(みさだめ)て、私を諫(いさ)めたのに、聴くことができるはずもなかったから、騙(だま)して逃がして差し上げた、その智慧(ちえ)も同様に広大で、日属(ひごろ)より十倍していた。理由がある事か、理解し難い。」と言うと有種(ありたね)は真実(しんけんなたいど)で「それはともかくも、重戸(おもと)を這里(ここ)へ参(まい)らせましょう。姑(しばらく)おまちになってください。」と言いながら奥へ退出したということだ。その人を俟(ま)つ間に、道節は、夏行(なつゆき)にすっかり対座して、「令愛(むすめさん)の慈善 賢明、犬飼・犬村が拯(す)くわれた、那(あの)一件の内容は、その崖略(あらまし)を聞いて知った。多く手に入れ難い善行 方便に、人は僉(みな)感佩(かんぱい)しない者はいない。そうではあるが今 試しに、その可否を論じるとしたらそれには、少し破隙(すきま)がないのではない。坐興(ざきょう)で這(この)主旨を言うべきか。」と言うと夏行(なつゆき)はすっかり笑って、「それは何事か知らないけれども、願うのはどうか教えてください。」と応(へんじ)をして膝(ひざ)を找(すす)めるので、道節は扇を(しゃく)に把(と)って、「このように言うなら善を喜(よし)としないで、猶且(なおかつ)人に加わるようなことを求めるのに似ているけれども、令愛(むすめさん)が初めから、犬村・犬飼が賊ではないのを、わかりなさったのは世の人が、是(これ)は及ばない所である。わかっていたから親に隠(かく)れて、放って行かせなさったのは、冤屈(むじつ)の与(ため)で人を殺して、後(のち)の祟(たた)りがありはしないようにしよう、と考えなさった誠心(まごころ)で、是(これ)も同様に世の人が、及ばない所である。だが昨宵(ゆうべ)おまえさま親子が、犬飼・犬村を趕(お)っ蒐(か)けて、千住河原(せんじゅがわら)に来なさった時、犬飼・犬村や私らまで、ひたすら那(あの)怨(うら)みを復(かえ)そうとして、おまえさま親子を許すことなく、従類までも屠(ほふ)ってしまったなら、是(これ)は令愛(むすめさん)の慈悲 善行は、還(かえ)ってその人自身の害で、親を殺傷し良人(おっと)を殺害する、愆(あやまち)となるのを、争何(いったいどのように)するのだろう。こういう理由で知命者(ちめいもの)は、(じん)も同様にすることはならない、好(よ)い行いもないに越したことはないと言った。なるほどを行おうと望んで、危殃(わざわい)にあう者がいる。宋襄(そうじょう)の敗軍、微生(びせい)の橋梁(きょうりょう)[襄王(じょうおう)は、敵が河を渉(わた)るけれどもうたないで敗軍した事は、左伝に見えている。また、微生(びせい)が女子(おんなのこ)との約束を裏切るようなことをおそれて、橋ばしらを抱いて溺(おぼ)れ死んだ事は、小説に載(の)せた。これを宋襄(そうじょう)の仁(じん)、微生(びせい)の信(しん)として無益の譬(たとえ)で言うのである]を行い信(まこと)を守るけれども、その機変(きへん)を知らないために、遂(つい)に自身を殺す禍(わざわい)がある。好(よ)い行いは吉事(きちじ)善事(よいこと)である。よい事がないなら、歹事(わるいこと)はない。をしようと望むより、不仁をすまいと慎(つつし)むことに及ぶことはない。好事(よいこと)があれと願うとしたらそれより、歹事(わるいこと)がないことには及ぶことはない。もなく不仁(ふじん)もなく、好事(よいこと)もなく歹事(わるいこと)も、ないことを名付けて無為(ぶい)という。這(この)主旨によって蘇東坡(そとうば)も、無事静坐(せいざ)と言ったのである。こうだけれども犬飼・犬村、及び私らに至るまで、おまえさまを殺害する心なく、怨讐(えんしゅう)は還(かえ)って知己(ちき)となって、歓(よろこ)びを尽(つ)くすことは、主人も客も幸いに、免(まぬが)れたのではないか。」と膝(ひざ)を拍(う)ち鳴らして論じるのを、信乃は急に制止して、「犬山おまえさまの弁論は、是(これ)は刑名家(けいめいか)の趣旨で、今 戦国の人意(ひとのこころ)には、これほどにも合うはずのことだけれども、俺(わたし)が考えるわけはそうではない。昨(きのう)主人の令愛(むすめさん)が、罪がない者を愆(あやま)って、殺すなら遂(つい)には祟(たた)りを稟(う)けて、親はいうまでもなく子孫にとっても、好ましくはあるまいと思われたのは、努力して(じん)をしたのではない、是(これ)はその苦計は他人の与(ため)で、意(こころ)は親と良人(おっと)の与(ため)である。こういうことだから他人に厚くして、親には薄いと言ってはならない。その人がした所は表向きではないので、親に叛(そむ)くことに似ているけれども、十分にその人の親の愆(あやまち)を、補う趣旨は是(これ)は孝である。孝があり義がある、慈悲 広大の、誠を以(もって)二犬士を、放ち行かせなさったので、犬村・犬飼・私らまで、恩を感じ徳を喜(よし)として、主人を殺害する心なく、恥を雪(すすぎ)清めただけであったのは、いうまでもなく賢女が致す所、天鑑(てんかん)は虚(むな)しくないのではないか。善には善の報いがある。悪には悪の報いがある。宋襄(そうじょう)の、微生(びせい)の信と、日を同じにして語ってはならない、そうは思わないか。」と徐(しず)かな感じで、理義を演(の)べた討論に、道節は耳を傾(かたむ)けて、「なるほど言われるとその道理がある。愚論は考えが足りなかった。氷垣(ひがき)主人、私の、酔語(すいご)を意(こころ)に掛(か)けなさるな。」と陪語(わび)ながら「阿々(かか)」と勢いよく笑うと、現八も大角も、信乃の議論を喜(よし)とした、その中で夏行(なつゆき)は、听(き)き終わって顔つきを改め、信乃・道節にすっかり対座して、「犬山 主(いぬやま ぬし)の宏論(こうろん)は、少し聞く所 明白で、これ以上あるまい、と思ったけれども、犬塚 主(いぬつか ぬし)はすっかり超(こ)えて、道理を罄(つ)くしなさった、妙論耳に新たで、仡(きっ)と老学となってしまうに違いない。実に感服しました。」と称(たた)えて亦復(またまた)四犬士に、盃(さかずき)を蔑(すす)めたということだ。

このようなところに主人(あるじ)の女児(むすめ)、重戸(おもと)は衣裳(いしょう)を更(あらた)めて、良人(おっと)に連れられてそろそろと、客房(きゃくのま)に出て来てしまったので、現八・大角は遽(あわた)だしく、席を避け一緒に迎えて、「これは落鮎 生(おちあゆ うじ)の御内室良善の御志念(ごしねん)が届いて、私らは幸いに老大人(ろうだいじん)御親子(ごしんし)と、友垣(ともがき)を結ぶことは、皆 是(これ)賢婦人の貺(たわまりもの)である。最(とても)歓(よろこ)ばしくあります。」と言うと、重戸(おもと)は額をついて、「浅い女子(おんな)の取りなしも、お棄(す)てあそばさない刀祢(との)達の、海のような御心(みこころ)が広いので(参考:海の心)、怨(うら)みを解いて風波(なみかぜ)が、立たなくなってしまった今日の集まりは、千金でこそありますように見えます。普段から田舎(いなか)の事であるから、款待態(もてなしぶり)が疎(おろそ)かで、差し上げる東西(もの)もありませんけれど、父も丈夫(おっと)も日が経つまでも、只(ただ)おん宿をしたく思う、と稟(もう)すより外(ほか)はありませんよ。」と言うのを少し聞く信乃・道節も、一緒に名を告げ対面して、昨日の取りなしを誉(ほ)めたので、夏行(なつゆき)は微笑ましい様子で、女児(むすめ)を身辺(あたり)に控(ひか)えさせて、「重戸(おもと)最後まで听(き)け、賓客(きゃくじん)達が、伱(あなた)は人を知る才能があると言って、太(とても)お誉めあそばせたけれども、親ながら数年来 日属(ひごろ)から、伱(あなた)がそのようまでに眼力が、あるはずとは思わないのである。それを那(あの)襦袗(じゅばん)の片袖(かたそで)の、明証(あかし)があることすら退(しりぞ)けて、犬村・犬飼 二君子を、那(あの)賊ではないと鑑定(みさだ)めたのは、理由がある事か、どういうわけなのか。」と問われて重戸(おもと)は気後れした顔つきをした、頭(こうべ)を持ち上げ衣領(えり)を優しくさすって、「おん疑いは道理である。奴(わらわ)だって初めから、那(あの)人さまが賊ではないのを、知るはずはありませんけれど、隔昨日(おととい)の(あかつき)に、とても美しい神女(かみひめ)が、枕の辺りにお立ちなさって、奴(わらわ)を喚(よ)んでおっしゃる用件は、翌(あす)未申(ひつじさる・15時?)の頃おいに、箇様々々(このようこのよう)な旅客(たびびと)二名(ふたり)、伱(あなた)の親に疑われて、脱(のが)れることができない大厄(だいやく)があるだろう。他(かれ)らは決して歹人(わるもの)ではない。俺(わたし)にとって過世(ぜんせのいんねん)のある、志気 潔白の義士で、その義を結んで弟兄(きょうだい)とある者は、他(かれ)らとそろって八名(はちにん)いる。這(これ)らが厄難(やくなん)ある時毎に、俺(わたし)はかばうものとして立ち身辺に添って、救わないことはなかったけれども、思うに翌(あす)の厄難(やくなん)は、疑似(ぎじ)の一種(ひとしな)があることをもって、それを解くようなことはとても難しい、伱(あなた)は先(まず)十分に這(この)意見を理解して、面(おもて)を犯し親を諫(いさ)めて、相変わらず聴きなさらないなら便直(てだて)をもって、他(かれ)らを放ち行かせてしまえよ。そのように取り計らうなら心配事を転(かえ)して、歓(よろこ)びと変わる福(さいわい)があるだろう。それを惑(まよ)って一緒に狐疑(こぎ)するなら、福(さいわい)は還(かえ)って禍(わざわい)と、なることをが瞬(またた)く間で、親も良人(おっと)も非命に死ぬだろう。自重しろよ、決して忘れるな。と妙音(みょうおん)高く示しなさる、と思うと夢は覚(さ)めました、覚(さ)めての後も胸は轟(とどろ)き、体が動いて平(ふつう)ではないから、とても神秘的でもあり惶(おそろ)しさに、心に秘めていたところ、果たして昨日 盗児(ぬすびと)を、穿鑿(せんさく)の事件が突然と起こって、旅ゆく両個(ふたり)の刀祢(との)達が、這里(ここ)に囚(とら)われなさったので、原来(さては)正夢であった、と心で悟って霎時(すこしのあいだ)もなく、性起(いさみたち)なさったあなた様を諫(いさ)めて、詞(ことば)を尽(つ)くしましたけれども、泡沫夢幻(ほうまつむげん)と世間でも言う、取るに足りない事を告げ稟(もう)し上げるなら、只(ただ)叱られるだけで、いよいよ聴(き)きなさらなくなってしまうに違いない。話さないのは話すより優ることがあるだろう、と考えるから話さないで見た夢で、神の教えに儘(まか)せて、示現(じげん)と違わない昨宵(ゆうべ)の事、今日の集まりも皆 是(これ)は神の、神謨(かんはかり・神のはかりごと)であったものを、知らないでいらっしゃるからなまじっか、奴(わらわ)を賢女才女よ、と仰(おっしゃ)ることこそ恥ずかしい。」と言うので驚く夏行(なつゆき)・有種(ありたね)、「原来(さては)そのような理由があったのか。普通ではない珍しい。」と感歎(かんたん)の、声より先に四犬士は、思わず目と目を合わせながら、そろって悟ってその意見を隠さない。正に是(これ)は伏姫 上(ふせひめ うえ)の、神霊 擁護(みたまのおうご)で疑いないと思って、言うまでもなく夏行(なつゆき)・有種(ありたね)・重戸(おもと)に、那(あの)姫上の出来事の顛末(てんまつ)は、箇様々々(このようこのよう)と説明して示して、「伏姫 上(ふせひめ うえ)は俺們(われわれ)の、過世(ぜんせ)の母でいらっしゃるから、このような霊験(れいげん)があったのだろう、今改めて思うと犬塚の、許我(こが)と行徳(ぎょうとこ)、猿石(さるいし・註6)の窮阨(きゅうやく)、その他に犬川(いぬかわ)が大塚(おおつか)で、軍木(ぬるで)・簸上(ひかみ)に悪く作り事を言われた、その他に道節ら五犬士の、荒芽山(あらめやま・荒船山に比定)であった事件、万死(ばんし)を出て一生を得たのも(参考:万死一生)、その他に現八・大角の、赤岩(あかいわ・註2)・返璧(たまかえし)の大厄難(だいやくなん)も、皆 是(これ)は那(あの)姫上が、かばうものとして立ち身辺に添って、お護りなさった冥助(みょうじょ)であるようなのを、神ではない自身が今日まで、悟らないで無駄に過ごしていた。お許しあそばせ。」と各々(おのおの)、念じて霎時(しばらく)合掌の、手を解(と)いて却(さて)夏行(なつゆき)らに、那(あの)物語(ものがたり)に及んだので、夏行(なつゆき)・有種(ありたね)は、言うまでもなく、重戸(おもと)も膝(ひざ)が找(すす)むのを感じられず、いよいよ驚きますます感動して、「里見 殿(さとみ どの)の姫上の、神霊 応験(みたまのおうげん)はあらたかであるのすら、世に有(あ)り難い奇事(きじ)であるのに、各位(おのおのがた)が幾番(なんど)か、危窮(ききゅう)の厄(やく)にあいながら、その志(こころざし)が移らないで、年が歴(た)つまで友同士(ともだち)の、所在(ありか)を索(さが)し求めなさることは、同様に是(これ)は得難い義士であった。凡眼(ぼんがん)は珠玉魚目(ぎょもく)を区別しない。越(ここ)に昨(きのう)の非を思うと、霎時(すこしのあいだ)であっても賊がもとで、論じたことの悔しさよ。願うのは一年三ヶ月(さんかつき)、杖(つえ)を駐(とど)めてさらに寛大に、誨(おし)えてください。」と叮嚀(ていねい)に、勧解(わび)て終日 相譚(したしくはな)したということだ。こうして饗饌(きょうぜん)が終わったので、四犬士はその次の日に、別れを告げて去ろうとしたのを、夏行(なつゆき)・有種(ありたね)は強く制止して、「なぜ強顔(つれ)なく速(すみ)やかに、出ていこうとおっしゃるか。亦復(またまた)その他の犬士の所在(ありか)を、索(さが)し求め回ろうとお思いになるとしても、期限がわかりなさらない旅であるのに、権且(しばらく)這里(ここ)にいらっしゃいね。縁さえ竭(つ)きないならば居ながらで、再会の時はなくはないか。だんだん冬に向かうから、雪を犯し霜を踏(ふ)んで、遥か遠い路(みち)をいくとしたらそれより、春まで逗留(とうりゅう)しなさらないか。急ぐのはきっと必要のないことであるだろう。」と詞(ことば)を尽くして放さないから、四犬士は已(や)むことを得ず、とうとうその人の意見に儘(まか)せたということだ。

この時から後 犬士らは、人が側にいない時、過去方(すぎさったむかし)を互いに報(つげ)るときに、道節は五ヶ年前、荒芽山(あらめやま・荒船山に比定)の窮難(きゅうなん)から、犬川 荘介(いぬかわ そうすけ)と一緒に、四国(しこく)・九州(きゅうしゅう)の尽処(はて)までも、徧歴(へんれき)は既に四稔(よねん)に及んだ。去年は甲斐国(かいのくに)の石禾(いさわ)にある、丶大 法師(ちゅだい ほうし)の寺に宿泊して、丶大(ちゅだい)幷(なら)びに照文(てるふみ)に、名前を告げあった出来事の内容、爾後(そののち)犬川 荘介は、その他の犬士を復(また)索(さが)し求めようといって、石禾(いさわ)を首途(しゅっぱつ)した事、この冬 信乃の窮阨(きゅうやく)を、道節が騙(だま)して拯(すく)った事、四六城 木工作(よろぎ むくさく)、幷(なら)びに里見(さとみ)の五の君(きみ)浜路 姫(はまじ ひめ)の事、淫婦(いんぷ)夏引(なびき)、泡雪 奈四郎(あわゆき なしろう)、その人の下男 媼内(おばない)・㡡内(かやない)らの事、甲斐国(かいのくに)の国守 武田 氏(たけだ うじ)が、信乃・道節に対面の出来事、これにより信乃・道節は、武田 氏(たけだ うじ)招待の、催(もよおし)があるのを聞いて知って、十一月(しもつき)の下浣(げじゅん)、蜑崎 照文(あまさき てるふみ)らとそろって、浜路 姫(はまじ ひめ)にお従い申し上げて、早くも石禾(いさわ)を立ち去って、武蔵国(むさしのくに)・下総国(しもふさのくに)の封彊(さかい)にある、墨田河(すみだがわ)に来た道中、四谷(よつや)の原(はら)(註7)で那(あの)奈四郎(なしろう)は、悪僕 媼内(おばない)に傷つけられ、信乃は料(はか)らずも奈四郎(なしろう)を、撃(う)ち果たして姫のおん与(ため)に、四六城 木工作(よろぎ むくさく)の怨(うら)みを復(かえ)した事、この日蜑崎 照文(あまさき てるふみ)は、浜路 姫(はまじ ひめ)にお従いして、河を渡して安房国(あわのくに)へ向かい、信乃・道節は荘介を、索(さが)し求めて甲斐国(かいのくに)に住まなくなってしまった、縡(できごと)の事情を告げようとして、予(あらかじ)め約束の (くに こおり)を、那這(あちこち)とすっかり巡(めぐ)ったのに、何処(どこ)に行ったというわけなのだろう未(いま)だ会うことができない、今年はの会津国(あいずのくに)から、白河(しらかわ)を経て下野国(しもつけのくに)にある、那須(なす)二荒山(ふたあれやま)、は言うまでもなく、投(めざ)す方角が無駄になってから、甲斐(かい)が峯(ね)近く引き返し、丶大 法師(ちゅだいほうし)に訪問して、荘介が帰って来たか、来ないかを問おうと考えながら、遂(つい)に這里(ここ)まで来たという、憂苦 艱難(かんなん)、瑰奇(かいき)も多い、過ぎてしまった出来事の物語(ものがた)らいに、現八と大角は、耳を側(そば)だてて嘆唱しながら、听(き)くこと約莫(およそ)一晌(ひととき・2時間)ほど、とりわけ浜路 姫(はまじ ひめ)の、一大奇事(いちだいきじ)に胸を潰(つぶ)して、「左(と)にも右(かく)にも俺党(わがなかま)は、里見(さとみ)殿に宿因があることは、いよいよ符節(ふせつ)を合わせるかのよう、犬山 生(いぬやま うじ)の女弟(いもうと)と聞いた、犬塚 生(いぬつか うじ)と合巹いも)の、約束を遂げることができなかったという、浜路(はまじ)亡女(ぼうじょ)と五の君と、同名であることも同様に普通ではない。就(つ)いては私らの身の上の一端も、箇様々々(このようこのよう)な事があった」と言って迭代(こうご)に説明して示す。現八は五稔(ごねん)已前(いぜん)、荒芽山(あらめやま・荒船山に比定)で危難の時、敵の重囲(かこみ)を殺脱(きりぬ)けて、独(ひと)り四犬士を索(さが)し求めた事、この頃行徳(ぎょうとこ)に向かって、小文吾(こぶんご)を訪ねたところ、彼は故郷に帰って来ない。曳手(ひくて)・単節(ひとよ)の往方(ゆくえ)すら、竟(つい)に知る方法もなかった事、京師(みやこ)に向かい旅宿(たびね)して、一稔(いちねん)以上住んでいた事、爾後(そののち)もう一度岐岨路(きそじ)から、下野国(しもつけのくに)に向かう時、荒芽山(あらめやま・荒船山に比定)に立ち寄った事、網緒(あしお)の茶店(さてん)鵙平(もずへい)の事、庚申山(こうしんやま)の奇異(きい)怪談(かいだん)、赤岩 一角 武遠(あかいわ いっかく たけとお)の、冤魂(えんこん)の誨(おし)えによって、返璧(たまかえし)にある柴門(しばのと)を、敲(たた)いて犬村 角太郎(いぬむら かくたろう)に会った事、仮(にせ)一角(いっかく)、牙二郎(がじろう)らの事、毒婦 船虫(ふなむし)、籠山 逸東太 縁連(こみやま いっとうた よりつら)の事、その他に現八の赤岩(あかいわ・註2)の試撃(しあい)、角太郎(かくたろう)夫婦の窮阨(きゅうやく)、烈女(れつじょ)雛衣(ひなきぬ)の自殺により、礼字(れいのじ)の神玉(かんたま)は敵を倒して、うまくその人の良人(おっと)の危窮(ききゅう)を拯(すく)い、一方で現八が予(かね)てから見計らって、角太郎(かくたろう)の浅傷(あさで)の鮮血(ちしお)を、親の髑髏(どくろ)に沃(そそ)いだので、親子の証据(しょうこ)は掲焉(いちじるしく)、角太郎(かくたろう)の惑(まよ)いは醒(さ)め、妖怪は越(ここ)に発覚(あらわ)れて、角太郎(かくたろう)に撃ち殺された事、この時から角太郎(かくたろう)は、(あざな)を大角(だいかく)と改めて、家を售(う)り故郷を離れ、その他の犬士に遇(あ)おうとして、現八と一緒に、徧歴(へんれき)は二稔(にねん)に及んだのに、一犬士にさえも遇(あ)わなかったので、権且(しばらく)故郷に引き返して、二親の墓にお参りして、幷(なら)びに亡妻(なきつま)雛衣(ひなきぬ)の、三回忌辰(さんかいきしん)に、仏事を執行(しゅぎょう)し、更に行徳(ぎょうとこ)に向かって、小文吾(こぶんご)は今もまだ、いるかいないか訊(たず)ねようとして、もう一度 現八とそろって、良(しだいに)這地(このち)まで来た事、頭(はじめ)から尾(おわり)まで、現八がこれを談じると、大角も同様に語を続けて、閑談に日が暮れるのを思い出さない。説明し終わって大角は、護身囊(まもりぶくろ)に蔵(おさ)めている、那(あの)礼字(れいのじ)の玉を取り出して、信乃・道節にこれを見せ、もう一度 衣領(えり)をすっかり開いて、左の方にある乳の下から、腋(わき)の辺りに及んでいる、痣(あざ)までもこの時見せたので、[犬士が玉を見せ痣(あざ)を見せ、一方で来路(すぎさったとき)を報(つげ)ることはここに至って何回目か。作者が筆を苦労させるところは、よく見ない人にとっては還(かえ)って飽きる気持ちがすると言われるに違いないだろう]、信乃・道節は聞き見る毎(ごと)に、そろって感嘆の声がとまらない。那(あの)時の勢いを、粤(ここ)でよくよく想像すると、現八の義勇、大角の純孝、雛衣(ひなきぬ)の苦節は言うまでもなく、那(あの)山猫(やまねこ)の事までも、皆 未曾有(みぞう)の珍説で、憐(あわ)れむなあ哀(かな)しいなあ、驚くなあ歓(よろこ)ぶなあ、事情がそのようにあったそうなのを、もう一度今改めて見る気持ちがして、節(せち)を拍(う)ちながら称(たた)えたということだ。当下(そのとき)大角がもう一度話す用件は、「私が犬飼と、一緒に旧里(ふるさと)に立ち寄ったことは、この世にいない妻を思い続けて、女々しく故郷を慕(した)ったのだろう、勇士の本懐ではないと思って、笑いなさるかわからないけれど、那(あの)雛衣(ひなきぬ)は、俺(わたし)自身の与(ため)に刃(やいば)に倒れて、敵を倒した大功がある。一方で私はその頃まで、父が非命に終わったのを、知らないで変化(へんげ)に仕えていたところ、犬飼 主(いぬかい ぬし)の好意(なさけ)で、父の仇(あだ)とある妖怪(ようかい)を、撃(う)ち捕(と)ることができたけれども、是(これ)すら孝とするために十分ではない。況(ま)して養父の洪恩(こうおん)徳義に、報いもせず義もなくて、その人の荘園(しょうえん)すら護(まも)らないから、心に恥じる事が多い。切(せめ)て妻の三回忌に、故郷に還(かえ)って菩提(ぼだい)を弔(とむら)うなら、養家の与(ため)に万一の、恩義に答える手段になるだろう、と決心しながら犬飼 主(いぬかい ぬし)と打ち合わせて形式通りに行った。這(この)意見を間違いなく査(さ)っしなされよ。」と報(つげ)る詞(ことば)が不楽(きおち)しているように見えるのを、信乃は听(き)きながら慰めて、「その事も同様に理義に称(かな)っている。誰が歹(わる)いと思うはずか。異邦(よそのくに)にいる(ひじり)と評判になる、(う)が洪水(こうずい)を理(おさ)めた時、六、七稔(ろくねんななねん)歴(た)つにつれて、自分の家の頭(あたり)を通り過ぎるけれど、立ち寄らなかったという事があるのは、臣とある道を尽くすからである。犬村 生(いぬむら うじ)はいまだ仕えない。只(ただ)同因果の友がいる、と耳にすることができて索(さが)し求め回るだけ。進退 不定(ふじょう)の旅であるから、非如(たとえ)そのような意味がなくても、何番(なんど)も故郷へ立ち寄るからといって、忌(い)み嫌うことは一切ないはず。一方で犬山を初めとして、犬飼・犬川・俺(わたし)自身まで、皆わけがあって旧里(ふるさと)へ、立ち寄ることができない者である。だから数年来 二親(ふたおや)の、墓にお参りすることは克(かな)わない。只(ただ)ため息をつくだけであるのに、犬村 生(いぬむら うじ)は別で、所親(しょしん)に置酒(ちしゅ)して別れを告げ、公然(こうねん)と旧里(ふるさと)を、愛(め)でたく立ち去りなさったのは、最(とても)羨(うらや)ましい事であった。」と言うと道節・現八も、「本当にその通りだ」と応(へんじ)をしながら、信乃の評語に自身を不楽(なげい)て、一方で大角の人と為(な)りが、温順で孝に厚いのを、一方で手に入れ難いと思ったということだ。

題名:讖兆(しんちょう)・予兆

☆:節(せち)を打つ・?

註1)惻隠(そくいん):孟子『不忍人之心・人に忍びざるの心』に「惻隠の心は仁の端なり」の一文がある。

(前略)

以上のことをもってこの件を考えてみると、憐れみいたましく思う心(惻隠)が無い者は、人ではありません。

自分や他人の不善を恥じ憎む心(羞悪)がない者は、人ではありません。
へりくだって譲り合う心(辞譲)のない者は、人ではありません。
物の良し悪しを分別する心(是非)のない者は、人ではありません。
憐れみいたましく思う心(惻隠)は、仁の糸口です。
自分や他人の不善を恥じ憎む心(羞悪)は、義の糸口です。
へりくだって譲り合う心(辞譲)は、礼の糸口です。
物の良し悪しを分別する心(是非)は、智の糸口です。

(仁義礼智)

註2)赤岩(あかいわ):安蘇郡足尾郷赤岩(参考)下野国記・庚申山

註3)江五田(えごた)・池袋(いけぶくろ)の戦い:以前登場した時は、「江古田」だった。八犬伝では「江古田・池袋の戦い」としているが、Wikipediaでは江古田沼袋原の戦いとある。江古田沼袋は2.5kmで南北に隣合っている。池袋と江古田は3.5kmで東西に隣合っている。どちらが正しいか検証はできていません。

註4)管領(かんれい):八犬伝では鎌倉公方を故管領家と呼んだり、山内・扇谷を管領家と呼んだりするので非常に混乱する。鎌倉公方とは、鎌倉を留守にしている京都の室町将軍の代理であり、当初の正式な役職名は関東管領であった。上杉氏は執事であったが、次第に上杉氏が関東管領となり、本来の関東管領は鎌倉公方となった(参考:鎌倉公方)。管領にはもともと、その地を管理・支配する人という意味がある。そして付け加えると京都の将軍の配下にも管領家という役職はあり、それは斯波細川畠山の三家である。

註5)穂北:架空の地名であるが、Wikipediaには保木間に比定とある。音を似せている。しかし、文中で穂北の東は千住といったり、川や堤が登場するので、実際の保木間の位置とは変更していると思われる。以前にも荒芽山に比定された荒船山は、文中の道順だと山の位置を追えなかった。また、〈第四十四回〉雷電山の位置も文中では実際の位置から変更されている。こういった変更は、八犬伝は創作と強調する馬琴の流儀なのかもしれない。

註6)猿石村:山梨県に猿石という地名を見つけられなかったが、場所を推測してみる。猿石村は穴山から徒歩2時間なので、昔の人は歩くのが早いことを考慮して、穴山駅の近くにある新府城跡から12km先の竜王駅近辺を猿石村と仮にする。さらに夏引が徒歩で向かった石和までは、竜王駅からは12km。躑躅が崎跡のある武田神社まで竜王駅からは8km。ついでに泡雪奈四郎の家がある躑躅が崎付近から石和までは約8kmである。

註7)四谷の原:江戸時代以前この辺り一帯はすすき原であったそう。参考:四谷の歴史

旧国名一覧地図

わかりやすい旧国名の話(武蔵国)

名詮自性シリーズ:落鮎 岩水 員種(おちあゆ がんすい かずたね)・落鮎〈秋の季語〉と、谷の岩から流れ出る水は、鮎が住んでいるから?

筆者感想:前回の最後の最後に慚愧の心をもった夏行・有種ですが、八犬伝では慚愧の心がない人間は畜生道に落ちる、と以前主張しました通り、この二人はおそらく畜生道をまぬがれ、晴れて犬士の仲間になりました。

また以前の考察に、他の犬士と会うと災いが解消されるように思うと書きました。しかし、片貝の災いや今回の穂北の災いは、稲戸や重戸が犬士を逃がし、災い解消後に他の犬士が登場するパターンでした。それとも毛野が馬加らを殺害したことや、信乃・道節が盗人を捕まえたことが災いの解消なのでしょうか。関係ありませんが、ついでに稲戸も重戸も「戸」つながり。

また、大角の雛衣への気持ちが今回説明されていてよかったです。きっと昔の価値観では、硬派が推されてたり、家にちょくちょく帰るのは、一人立ちできない・子供っぽい・覚悟がない・みたいに思われてたのかもしれませんし、軟派や家を恋しく思うことが当時でも普通であったとしても、そんなのは男じゃねえ!という馬琴の理想を表現したのが八犬士キャラかもしれません。

コメントを残す

WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう